« 被害者2人までは有期 | メイン | 徳が魂の本質で、徳・魂・肉体は密接に »

白河天皇が実子の堀河天皇へ譲位

1086年(応徳3年)に白河天皇が実子の堀河天皇へ譲位し、院政を開始した時が、治天の成立だと考えられている。堀河は皇位にありながら、政治の実務は白河が行っていた。堀河が没してその子鳥羽天皇が即位しても白河が政務を担った。白河が没すると、崇徳天皇に譲位し既に上皇となっていた鳥羽が治天となり、院政を開始した。白河も鳥羽も積極的な政策展開を行い、専制的な院政の典型とも、院政の最盛期とも評されている。

育毛養毛・メンタルヘルス関連健康・医療COM
おもちゃ・不用品関連買物達人全国情報ガイド
教育・学習関連暮らしの教育サイト
水族館・旅行関連旅の宿泊ナビ
美容室・ネイルアート関連コスメグッツ通販総合
ビスマルク 経済支援情報
リフォーム・仏具関連快適生活ナビ
アロマテラピー関連ようこそ医療サーチ
ファッション・自動車関連買物市場全国情報ガイド
音楽・ホームステイ関連学習らんどナビ

1156年(保元元年)、鳥羽が没すると、崇徳上皇と後白河天皇の兄弟が治天の座を巡って争い、後白河が勝利した(保元の乱)。後白河は2年後の1158年に退位すると院政を開始し、途中、平清盛による院政停止や高倉院政などがあったものの、1192年(建久3年)に没するまで治天の地位にあった。

さて、白河院政の後期以降、院への荘園寄進が非常に集中するようになり、天皇家は莫大な経済基盤を得ることとなった。これらの荘園はいくつかのグループに分けられ、別々に相続されていった。例としては、鳥羽が娘の八条院に相続した荘園群である八条院領、後白河が長講堂という寺院に寄進した長講堂領などがある。治天は天皇家の家督者として、これらの厖大な荘園群を総括する権限を有していた。

鎌倉期
後白河の次に治天となったのは、その孫の後鳥羽天皇だった。1180年代の治承・寿永の乱の結果、東国に鎌倉幕府が成立し、独自の支配権を獲得していたが、治天として専制を指向する後鳥羽には、幕府の存在が我慢ならないものだった。1221年(承久3年)、まだ誕生して間もなく、源実朝暗殺により将軍不在となった幕府の体制を不安定と見た後鳥羽は、幕府の武力排除を試みたが、幕府軍に敗北してしまった(承久の乱)。これにより、後鳥羽及びその直系の上皇・天皇は追放され、後堀河天皇が即位した。後堀河の父守貞親王が天皇家の家督者として、治天に就任することとなったが、守貞親王は天皇位に就いたことがなく、治天の資格要件を欠いていた。しかし、緊急事態であることが考慮され、特別に治天となり、後高倉院(天皇の例に倣い没後に院号を贈られた)として院政を布いた。これは、既に治天の存在が不可欠になっていたことを表している。

承久の乱以降、治天がそれ以前と同等の権力を有することはなく、重要事項は幕府と協議した上で決定することが常態化した。13世紀中期には、次代の治天の座を巡って後深草天皇の系統(持明院統)と亀山天皇の系統(大覚寺統)が対立したが、治天である後嵯峨上皇は亀山系による皇位継承を遺言して没し、後深草系はこれに反発して幕府に力添えを頼んだ。最終的には幕府が仲介に入って双方が交互に治天の地位に就く両統迭立が行われるようになった。本来なら治天が次代の治天を指名するべきところ、その指名を幕府に委ねたという事実は、治天の権威が低下しただけでなく、治天の権限の一部を幕府が代行していたことも意味している。

1318年(文保2年)に即位した大覚寺統の後醍醐天皇は、上記の状況を大きく変革した。まず、父であり治天でもある後宇多上皇の院政を停止し自ら政務に当たる親政を始め、また、2度にわたって倒幕を企てたが、いずれも天皇位への権力集中(権力の一元化)を指向したものだと見られている。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.benibana86.com/blog/mt-tb.cgi/1890

About

2009年04月26日 11:24に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「被害者2人までは有期」です。

次の投稿は「徳が魂の本質で、徳・魂・肉体は密接に」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.35